12の伝統・1937~1950年

12の伝統が
生まれるまで

このページのAAの文献からの引用のうち、12のステップ、12の伝統(短いものと長文のもの)、12の概念の短いかたち、AAの序文は、AA日本ゼネラルサービス(JSO)が公開している日本語です。ビッグブックの本文、祈り、12の概念の長いかたち、そのほかのAAの文献や歴史書からの引用の日本語は、AAの英語の原文からの私たちの翻訳で、AAが出版した日本語訳ではありません。英語で読む

1937年にビル・Wへ「ノー」と言ったグループから、1950年に「イエス」と答えた大会まで、13年間の歩みです。語るのは出典だけ――ビッグブック、1946~1947年のビル・Wの「グレープバイン」の論考、そして『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』。

要点

12の伝統は、AAのグループが最初の数年間に痛い思いをして学んだことを、次のグループが同じ道をたどらずにすむように書き留めたものです。ビッグブックによれば、12の伝統は二つの問いに答えるものです。「AAはどうすれば、最もよく機能できるのか」、そして「AAはどうすれば、最もよく全体を保ち、そうして生き延びていけるのか」(英語版561ページ)。

ビル・Wはこれを「私たちの将来を確かなものにするための12項目」――長文のもの――として1946年5月の「グレープバイン」に書き記し、1946年から1947年にかけての「グレープバイン」の論考で解説しました。1947年ごろから短いものに縮められ、1950年7月にクリーブランドで開かれたAA最初の国際大会が、それを承認しました。

年表

  1. 1937年 ニューヨークのメンバーたちが、ビル・Wを説得して有料のセラピストになるのをやめさせます。ビルはその夜、三つの原則を持ち帰ります。
  2. 1939~1941年 AAは、回復しつつあるアルコホーリク約800人から、8,000人のメンバーへと成長します(英語版ビッグブック、xviiiページ)。
  3. 1945年 グループ内の争いを訴える手紙が、ニューヨークのオフィスにあふれます。ある友人が、その経験を一組の原則にまとめてはどうかと勧めます。
  4. 1946年5月 長文のもの、「私たちの将来を確かなものにするための12項目」が「グレープバイン」に載ります。
  5. 1946~1947年 ビル・Wの「グレープバイン」の論考が、問題を一つずつ取り上げて、各項目を解説します。
  6. 1947年ごろ シカゴのアール・Tが、ステップと同じくらい短いものを提案します。
  7. 1950年7月 クリーブランドでの第1回国際大会が、12の伝統を承認します。

1937年:最初の教訓は「ノー」だった

1937年、ブルックリンのクリントン・ストリート182番地にあるビルとロイス・Wの家には何人ものアルコホーリクが同居していて、お金に余裕がありませんでした(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。チャーリー・タウンズは、ビルに自分の病院の事務所を提供し、そこで資格を持たないセラピストとして働くなら、「相応の前渡し金と、利益のかなり大きな分け前」を出すと申し出ました(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

ビルはほとんど承諾したも同然でした。その夜、自宅でのミーティングで、メンバーたちは彼の話を最後まで聞いたうえで、断りました。「プロには決してなれないということが、わからないのか」とひとりが言い、「この活動を、彼の病院とも、ほかのどの病院とも結びつけるわけにはいかない」とも言いました(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

「こうしてグループの良心が語った」とビルは書いています。「グループが正しく、私が間違っていた」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。ビルはその夜に、三つの原則を数えました。「共通の福利がまず優先されなければならない」、「AAはプロのセラピストという階級を持つことはできない」、「グループの良心のなかで語られる神が、私たちの最終的な権威となる」。四つ目も暗に含まれていました。「私たちのリーダーは信頼されたしもべであって、支配はしない」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。長文のものと並べて読むと、これらは伝統1、2、8の種であり、どれ一つ文字になる9年も前のことです。

1939~1945年:成長の痛み

ビッグブックは1939年に出版されました。その年の終わりまでに、約800人のアルコホーリクが「回復への途上にあり」、「1941年末までに、AAのメンバーは8,000人に達した」のです(英語版xviiiページ)。

「再版にあたって」は、その後に訪れたものを「恐ろしくも刺激的な思春期」と呼んでいます。「メンバーシップ、リーダーシップ、金銭をめぐる争い」や、「権力と名声を求める奮闘」、「AAをばらばらに引き裂く分裂」が起こるのだろうか、と。「やがてAAは、まさにこうした問題に、あらゆる面で、あらゆるグループで悩まされることになった」(英語版xviii~xixページ)。

メンバーシップも争いの一つでした。ニューヨークのオフィスがあるとき、各グループにメンバーシップの規則を送ってほしいと頼んだところ、「それは何枚もの紙を要した」のです。ビルの結論はこうでした。「もしこれらの決まりがすべて、あらゆる場所で同時に施行されていたら、どんなアルコホーリクであっても、アルコホーリクス・アノニマスに加わることは事実上不可能だっただろう」(ビル・W「アルコホーリクス・アノニマスのメンバーとは誰か?」、「グレープバイン」1946年、P-17、12ページ)。

ビルは振り返って、初期のヒヤリとする出来事や再飲酒(スリップ)、色恋沙汰は、乗り越えられるものだったと語っています。本当の危険は「権力、支配、栄光、そして金銭への欲望」でした(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

お金の問題は、一つひとつの決定を重ねて解決されました。1945年、アルコホーリック財団は、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアと、1940年の彼の晩餐会の招待客たちに、AAはもう「彼らの財政的な援助を必要としなくなる」と手紙で伝えました。「これは、私たちがついに完全な自立を宣言したということだった」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

1945年:手紙

あらゆる争いが、結局は郵便で届きました。「どのグループの議論でも、その当事者の誰もが、この混乱と興奮の時期に私たちへ手紙を書いてきたかのようだった」とビルは書き、「アルコホーリクス・アノニマスの12の伝統の基本的な考えは、この膨大な書簡のやりとりから直接生まれた」と述べています(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

1945年の終わり近く、ビルが名前を挙げていない「AAのよい友人」が、そうした経験のすべてを一組の原則にまとめてはどうかと提案しました(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。ビルは、そのような規範に何ができて何ができないかを、はっきり述べています。「伝統の規範が、もちろん、規則や法律になることは決してありえない。しかし、私たちの常任理事や本部の人たち、とりわけ成長の痛みを抱えるAAグループにとっては、指針になるかもしれない」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

1946年5月:「私たちの将来を確かなものにするための12項目」

執筆したのは、ビルとオフィスの協力者たちです。「アルコホーリクス・アノニマスの伝統は、いわゆる『長文のもの』として、1946年5月の『グレープバイン』に初めて発表された」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。題は「アルコホーリクス・アノニマスの関係についての伝統――私たちの将来を確かなものにするための12項目」でした(P-17、まえがき、7ページ)。

ビルはこれを「グループとしての行動と広報についての健全な原則を述べた、私たちの最初の試み」と呼び、「裏付けとなる記事とともに、連載で」「グレープバイン」に掲載するよう頼まれたと語っています(P-17、まえがき、6ページ)。

英語版のビッグブックが今も載せているとおり、長文のものはこう始まります。「われわれのAAの経験は、次のことを教えている。」続く最初の項目はこうです。「各メンバーは、アルコホーリクス・アノニマスという大きな全体の一部である。AAが生き長らえなければ、私たちの多くが確実に生命を失うことになるだろう。」(英語版563ページ)。各項目は、あらかじめ立てた計画ではなく、経験が教えたこととして書かれています。

ビルは、これらを自分のものだと主張したことはありません。「誰もアルコホーリクス・アノニマスを発明していない。それは育ってきたのだ」と書き、その教訓は「最初は方針として、やがて伝統として」採り入れられたと述べています(P-17、まえがき、6ページ)。伝統そのものについては、こう述べています。「私はただ、AAのグループ経験のなかですでに育っていた原則を映し出す形で、それらを紙に書き留めただけだった」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

1946~1947年:論考

「その後、『グレープバイン』の追加記事が、伝統を詳しく説明した。これらは数か月にわたって掲載され続けた」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。小冊子P-17、「A.A. Tradition — How It Developed」(英語のパンフレット)には、そのうちいくつかが、それぞれが支える伝統とともに再録されています:

  • 「アルコホーリクス・アノニマスのメンバーとは誰か?」(1946年):「伝統3は、この文章から生まれた」(P-17、12ページ)。
  • 「お金」(1946年):「伝統7を書くに至った経緯」(P-17、28ページ)。
  • 「無名であること」(1946年):無名にかかわる伝統、つまり伝統11と12について書かれた最初期の記事の一つ(P-17、42ページ)。
  • 「病院とAA」(「適切な入院」、1947年より)と「AAのクラブ」(1947年):伝統6の背景(P-17、16ページ、18ページ)。
  • 「AAをほかのプロジェクトと結びつける危険」(1947年):「伝統6と8が認めている」危険(P-17、24ページ)。
  • 「AAに個人による統治はありうるか?」(1947年):伝統9の背景(P-17、38ページ)。

当時、物事がどれほど定まっていなかったかを、率直に述べています。「アルコホーリクス・アノニマスでは、金が物事を動かすのか、それとも金はあらゆる悪の根源なのか。私たちはその謎を解いている最中である」(ビル・W「お金」、1946年、P-17、28ページ)。そして、誰にも強制できない原則を、なぜグループは守り続けるのでしょうか。「守らなければ自分たちがばらばらになってしまうと、グループは分かっている」(ビル・W「AAに個人による統治はありうるか?」、1947年、P-17、39ページ)。

全員が感謝したわけではありません。「伝統が最初に発表されたとき、受け止め方はまちまちだった」とビルは振り返っています。激しい反発があり、それは「とくに『保護のための』規則や規定を長々と並べていたグループで」目立ち、ほかの場所では「しらけた無関心」が多かったといいます。ビルが伝統について話すために各地を回ると、メンバーたちは「明らかに退屈していた」のです(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。ある手紙は、代わりにビルの飲酒体験の話を求めていました。「しかし、あのいまいましい伝統の話は、もうしないでください」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

1947~1950年:短いもの

短いものを考えたのは、シカゴのグループの創設者アール・Tで、「1947年ごろのある日」にビルの家に現れました(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。「1週間の格闘」の末に最初の草案ができ、それは「今日の12の伝統によく似ていた」といいます。さらに「数か月の相談と推敲を重ねて、最終稿が整った」のです(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

「グレープバイン」はその後、この新しい文言を「毎号」載せ、クリーブランドの大会のころには「伝統への理解と承認が、私たちの共同体全体に広まっていた」のです(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。ビッグブックは今も、短いものを「1946年に最初に印刷された、元の『長文のもの』のAAの伝統を縮めた版」と説明しており(英語版561ページ)、両方を載せています。短いものは562ページ、長文のものは563~566ページです。

1950年7月:クリーブランド

「1950年の夏、私たちはオハイオ州クリーブランドで、最初の国際大会を開いた。出席者は約3,000人だった」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。ドクター・ボブにとっては、これが最後の出席となりました(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

その場にいた人々は、ドクター・ボブも、そのあとに続く多くの初期のメンバーも、まもなくいなくなるだろうと感じていました。「これからは、AAの一体性のために、草分けの人々の権威と影響力に頼ることはできなくなる。今後は、12の伝統に示された霊的な原則に頼らなければならない」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

何人かの話し手が伝統を紹介しました。ビルがそれを要約して承認を求めると、大会は「満場一致の同意の声」を上げました。「1950年7月のその月の、すばらしいひとときだった」(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

ビッグブック自身の説明は一文です。「これらの原則はどれも規則や法律としての強制力を持たなかったが、1950年までには広く受け入れられるようになり、クリーブランドで開かれた私たちの最初の国際会議で承認された」(英語版xixページ)。

歴史が示すこと

伝統は、上から授けられたものではありません。グループのなかで何がうまくいかなかったかの記録であり、AAが一つにまとまっていられるように、グループのために書かれました。だから伝統は、AAのグループにも、AA全体にも語りかけます。ビッグブックの言葉でいえば、AAが「最もよく機能できる」にはどうすればよいか、「最もよく全体を保ち、そうして生き延びていける」にはどうすればよいか、という問いに答えているのです(英語版561ページ)。両方のかたちを一語一句そのままに、それぞれの意味とともに:12の伝統、実際に何と言っているか。

出典が語っていないこと

  • 最初の長文のものが載った月。ビル自身の記述が食い違っています。『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』(1957年)は「1946年5月の『グレープバイン』」としていますが、ビル自身の「A.A.'s Legacy of Service」(P-44)は「1946年4月の『グレープバイン』」としています。このページは『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』に従っています。
  • 1950年7月のどの日だったか。ビルが述べているのは「1950年7月のその月」と「1950年の夏」だけです(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。
  • 1945年の終わり近くに規範を提案した友人が誰だったか。ビルは語っていません。
  • アール・Tが短いものの案を持って来たのが、正確にいつだったか。「1947年ごろ」というのが、ビルが示す最も近い答えです。
  • 1946~1947年の論考が、「グレープバイン」のどの号に載ったか。P-17は年しか示していません。
  • クリーブランドの参加者数。「約3,000人」はビルの数字です(『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』)。

1934~1950年の全体の流れを、段階を追って、それぞれにAAの本のページを添えて:AAの歴史を、AAの本から。

自分で読む

  • 付録I「AAの伝統」、両方のかたち(英語版561~566ページ)、AAによる無料公開:aa.org
  • 「再版にあたって」(英語版xv~xxiページ):aa.org
  • P-17、「A.A. Tradition — How It Developed」、ビル・Wのまえがきと「グレープバイン」の論考:aa.org
  • 『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』(1957年)、ビル・Wによる歴史書、AAワールドサービス社が販売:onlineliterature.aa.org

ページ番号は、英語版『Alcoholics Anonymous』第4版のものです。「グレープバイン」の論考は題名と年で示し、それらを再録している小冊子「A.A. Tradition — How It Developed」(P-17)のページを添えています。『アルコホーリクス・アノニマス 成年に達する』は、ビル・Wによる1957年の歴史書です。引用は短く、出典を示しています。それ以外はすべてRecovery Startsの言葉です。Recovery Startsは独立した回復啓発プロジェクトであり、AAの公式文献でも、AAグループでも、AAワールドサービス社(A.A.W.S.)の関連団体でもなく、医療上の助言でもありません。本を手に入れるか、aa.orgで伝統を無料で読んでください。危機的な状況にあるときは、日本では、いのちの電話(0120-783-556、無料・毎日16:00~21:00)やよりそいホットライン(0120-279-338、無料)に電話してください。命に危険があるときは119番へ。アメリカ・カナダでは988(Suicide & Crisis Lifeline)に電話し、日本語の通訳を頼んでください。